こんにちはJOLです。
最近は色々な映像をオールインワンVRヘッドセット(オキュラスクエスト2)で再鑑賞しているのですが
『カッツィ三部作』とは、高度資本主義によって引き起こされる、アメリカ大陸でのさまざまな自然破壊の映像を、斬新な映像テクニックを駆使して描いた一種のドキュメンタりー映像作品です。映像はいかに現代の人間社会がバランスを失ったこっけいですらあるかをスローモーション、コマ送りで色々な映像がどんどん登場していきます。
全編、フィリップ・グラスによるミニマルでアンビエントでときにスピーディな音楽に彩られていて、映像と一体となった展開が見応え十分な異色作になっています
「コヤニスカッツィ」とは、アメリカ先住民、ホピ族の言葉で「バランスを失った世界」を意味します。基本的に、この作品はナレーションや台詞が一切挿入されず、映像とバックに流れる音楽の提示という形式で統一されています。
監督はゴッドフリー・レッジョ、音楽は作曲家のフィリップ・グラスが音楽が担当、撮影はロン・フリッケ。
- ★ 『コヤニスカッツィ』 1982年
常軌を逸し、混乱した生活。平衡を失った世界。
北半球で進む自然破壊の実態や、激しい消費活動に明け暮れる都市文明の狂騒。
コヤニスカッティとはアメリカ先住民族ホピ族の言葉で「バランスを失った生活」という意味。 - ★ 『ポワカッツィ』1988年
変容する生活、自己の繁栄のために他者の生命力を消費する存在、あるいはその生活様式。
南半球に残る豊かな自然と風土。ホピ族の言葉で「自己の繁栄のために他人の生命力を食い物にする生き方」 - ★ 『ナコイカッツィ』2002年
互いに殺しあう命、日常と化した戦争、文明化された暴力、生存手段としての戦争。
前2作品と比べ鮮やかに進化したデジタル・テクノロジーを駆使した美しい映像の数々とFグラスの今までの作風とことなるヨーヨー・マとのコラボ音楽に息をのみます。
コヤニスカッツィを観たのは大学の文化人類学の授業の時ですが、ちょうど宮内勝典氏の宇宙的ナンセンスの時代を読んでいた時で、映画も興味深くみたことを思い出します。
あの有名なアポロ12号計画のサターンVロケット打ち上げのクローズアップから、衝撃的なマーキュリー計画の打ち上げ用無人ロケットアトラスが、打ち上げ後の上昇で大破したスロー映像のエンデイング。このシーンはよくチャレンジャーの打ち上げと誤解されるけれど、有人のチャレンジャー号爆発事故は本作品の3年後の出来事。
特に好きな場面はマーキュリー計画の打ち上げ用無人ロケットアトラスが打ち上げ後の上昇で大破した衝撃的なスロー映像のエンディング。
ロケットが真っ青な空で大爆発をするさまを冒頭のゆっくりとした音楽がカバーしてゆくさまを見てほしいと思います。
一見なんともミスマッチな感じなのになぜか強烈に心に響いて来ます。
どんな音楽を付けてもこの雰囲気には絶対にかなわないというような素晴らしい出来に、きっとみなさんも共感してくれるでしょう!
(ちなみにチャレンジャー号爆発事故ではありません。それは3年後の事です。もしこの映像がそうだとしたら、もう完全に胸がつぶれる思いになったでしょう)
あれから10年以上たったけれど。この映像の衝撃は色褪せてはいないん。
スペースXなどで、最近では無人のロケットの爆破は見慣れているかもしれませんが。この映像の時代には象徴的な意味合いがあったのだと思います。今でこそ、古臭くかんじるものは事実。
それでも、監督のレッジョ氏は
「これらの作品は、テクノロジーや産業が人間にもたらした結果をひけらかそうとしたものではありません。三部作で表現されているのは、政治、教育、経済の構造、国家の基本構造、言語、文化、宗教、といったもの全て、テクノロジーという概念を構成しているもの全てなのです。
テクノロジーが”もたらした結果”についての映画ではありません。私たちはテクノロジーを利用しているのではなく、テクノロジーの中に生きている”のです。テクノロジーはあらゆる箇所にいきわたり、空気と同じような存在と化しているのですから。
上記で云われているように、今やテクノロジーは本当に空気と同じような存在と化している。
だが、遠い未来に自然とテクノロジーは対立ではなく、本当に共生ができるのか、という問いがAIの出現などで、さらにリアルになった現在。この映像叙事詩の意味はさらに深まったのかもしれません。
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