【映画】パニックぎわの視点/当事者の視点

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見た方次第では、物語の起承転結もない、単なる「シンプルなパニック映画」だと思います。

「何か」がニューヨークやってきて、そこに住むあらゆる人々をパニックの渦の中に突き落とすのだが、最初から、最後まで、それが何か?なんで始まったのか?、または、なんでこういう事態になったのか? つゆほども理由がわからない。

観客は、主人公グループの手持ちのビデオカメラによって撮影された映像を観ながら、映画のストーリーらしきものを後追いで確認していくことになる。

映画の中の主要な登場人物達は、事件が発生している場所のまっただなかにいるのにもかかわらず(というより、まさに、ど真ん中にいるが故に)全く状況を掴んでいない。また、その状況を後追いして見る視点しか与えられていない鑑賞者の私たちにも、全く事実はみえてこない。

だが、ちょっと考えてみれば、それは当然のことだ。

通常の映画なら、観客である私たちは、映画の内で繰り広げられる世界とは違う、外部からの視点を基本的には無条件に与えられている。もちろん、それによってミスリーディングも起きるわけだけれど、基本的に全体像を見ているという意味では、映画の登場人物の持っている視点とは根本的に異なっている。

だから、私たちは登場人物の気持ちに関係なく、展開されるシチュエーションや、風景のシーンにさえ共感できる場合があるし、また、その逆もありえるのだと思う。

とはいえ、この映画をみながら、そんな映画の方法論が気になったわけじゃなくて、むしろ「視点」の在り方によって、私達の視点の先に広がる世界の捉え方はまったく異なるんだな、という当たり前の事に気づいた、とだけ言いたかった。

パニックぎわの視点で、細部や全体を理解しながら、物事を判断していくのは難しい。

ただでさえ、当事者は、逆に自分自身の視点の外から物事を判断することには困難がともなうのだから。この映画は、どの視点の位置を持つかによって多角的な見方ができる映画だ思うけれど、あなたは、どの視点に位置をおいて映画を眺めただろう?

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