
「いま、私の頭の中に、沛然と地名のスコールが降る」とは、なんて素敵なフレーズだろう。
中野美代子さんの「眠る石」という作品。
遺跡や仏像や石造の建物、長い歴史の狭間に埋もれている石たちの夢を語ったものであるが、それら夢は、夢であるがゆえに、地勢的な場所の括りに囚われず始まりや、終わりもない場所を変えながらも、まるでループするかのような物語は幻惑的でさえある。
眠る石”とは、廃墟の石のこと。いにしえに滅んだ王国の、石の建造物たちのこと。
中野美代子さんの短篇集。ほんの少しずつ極上の甘味美味を、ついばんだような気分です。ひとつひとつの物語はとても短く、悠久のまどろみの中にある石たちの夢のあぶくのように、束の間浮かんではかき消えてしまうのでした…。
『奇譚十五夜 眠る石』、中野美代子を読みました。
〔 一千番目の石像と化した王女、韃靼人の文字が密かに描き込まれた聖画、最前景に異形の物体が浮遊する肖像画、“死の塔”の最初の受難者…など、七世紀のタクラマカン沙漠から二十世紀のカンボジアまでの時空間に、寺院・礼拝堂・回廊・草庵の建築。絵画縁起を基軸にして、地名への偏執を死への親和性によって編みあげられた、摩訶不思議な、十五の夢幻の物語。 〕
収められているのは
「ロロ・ジョングラン寺院」
「スクロヴェーニ礼拝堂」
「楼蘭東北仏塔」
「ボロブドゥール円壇」
「ビビ・ハヌム廟」
「泉州蕃仏寺」
「ウェストミンスター・アベイ」
「シャトー・ド・ポリシー」
「龍門石窟奉先寺」
「カリヤーンの塔」
「アンコール・ワット第一回廊」
「ベゼクリク千仏洞」
「晋江摩尼教草庵」
「ザナドゥー夢幻閣」
「プリヤ・カン寺院」、の15篇。
すでにこの目次がすべてを語る…。跋によればこの物語たちは、中野さんの“地名への偏執の所産”なのだそうです。なるほど。
松岡正剛氏が指摘するように、文体の迷宮性をもって物語を律する語り部は、いまの日本には中野美代子さん位しかいないのかもしれない。
最後の奇譚の中で、語り手の私は、
カンボジアのプリヤ・カン寺院を観ることができたと意識した
その刹那に地雷(マイン)を踏んでしまう。
刹那と永遠、意識と無意識の交差。
そういえば、夢といえば、こちらも有名ですよね。
昔者、荘周夢為胡蝶
栩栩然胡蝶也
自喩適志与
不知周也
俄然覚、則遽遽然周也
不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。
此之謂物化。昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れを之れ物化と謂ふ。参考文献:古典I漢文編 稲賀敬二 森野繁夫編 第一学習社
さて、あなたには、どちらの夢が魅力的でしょうか?
映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」のラストシーン、誰も撮ったことのないアンコールワットを写真に撮るために戦場カメラマンだった一ノ瀬泰造氏が、森の中を駆け抜けて辿り着いた視線の先にあった、その最後。そのシーンを観た時、「眠る石」の最後の章を思い出しました。
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