こんにちは!ジャイアン(@GIANSTEP1)です。
前回は、Vermillion(バーミリオン)をきっかけに、
「私みたいな人が、なぜ絵を描くのか」について整理しました。
今回はその続きとして、
「なぜアートを“家に置く”のか」という話をします。
描く行為と、飾る行為。
一見別の話に見えますが、私の中ではかなり近い位置にあります。
アートを家に置くのは、センスの話ではない
まず最初に、はっきりさせておきたいことがあります。
私にとって、
アートを家に置くことは
センスの表明でも、趣味の誇示でもありません。
「おしゃれだから」
「詳しいと思われたいから」
そういう理由ではない。
むしろ逆で、
何も考えずに見られるものを、生活の中に残したい
という動機に近いです。
30〜50代の生活は、情報と判断で埋まっていく
この年代になると、
家は「休む場所」であると同時に、
もう一つの仕事場になります。
メール。
通知。
ニュース。
ToDo。
家計。
将来設計。
気づけば、
家にいても脳はずっと外向きです。
そんな空間に、
さらに情報性の高いものを置くと、
無意識に判断が増える。
だから私は、
判断を要求しない視覚情報を置きたいと思っています。
なぜ派手なアートではなく、静かな作品が残るのか
結果として、
家に残っているのは、
強いメッセージ性のある作品ではありません。
色数が少ない。
構図が静か。
意味が一義的でない。
いわゆる「分かりやすいアート」は、
最初は刺激的ですが、
毎日見るには情報量が多すぎる。
静かな作品は、
見ようとしなければ、ただの背景になります。
でも、ふと目に入ったときに、
思考を止める方向に働く。
これが重要です。
アートは「考えさせるもの」ではなくていい
アートというと、
「何を表現しているのか」
「どう解釈するか」
を考えがちです。
でも、生活空間におけるアートは、
必ずしも思考を刺激する必要はありません。
むしろ、
- 判断しなくていい
- 理解しなくていい
- 意味づけしなくていい
この条件を満たす方が、
家との相性はいい。
私は、
アートを“見る対象”ではなく、“在るもの”として置いています。
描く行為と、置く行為は同じ方向を向いている
Vermillionで絵を描くとき、
私は「うまく描こう」と思っていません。
同じように、
家に置くアートも、
「評価しよう」とは思っていない。
共通しているのは、
- 成果を求めない
- 正解を探さない
- 説明責任を負わない
という点です。
描くことも、
置くことも、
判断の外側にある行為。
だから、この二つは自然につながります。
メンターがオフィスや自宅にアートを置いていた理由
昔、私のメンター(他の記事:)は、
オフィスや自宅に必ずアートを置いていました。
当時は、
「趣味なのかな」
「余裕の表れかな」
くらいにしか思っていませんでした。
今なら分かります。
あれは、
思考を加速させるためではなく、減速させるためだった。
判断を続ける立場にいる人ほど、
意識的にブレーキを設計しないといけない。
アートは、そのための装置だった。
家にアートを置くことの実務的なメリット
かなり現実的な話をすると、
家にアートがあることで、
- スマホを見る頻度が下がる
- 何もしない時間を肯定しやすくなる
- 思考が散らかりにくくなる
こういう効果があります。
派手な変化ではありません。
でも、積み重なると効いてくる。
30〜50代にとって、
この「微差」はかなり大きい。
高価である必要はない
ここも重要です。
アートは、
高価である必要はありません。
・版画
・ドローイング
・プリント
・自分で描いたもの
どれでもいい。
重要なのは、
そこに意味を背負わせすぎないこと。
「価値があるから置く」ではなく、
「生活に負荷をかけないから置く」。
この逆転が起きると、
アートとの距離が一気に縮まります。
結論:アートは、生活のノイズを減らすために置く
私がアートを家に置いている理由は、
感性を磨くためでも、
教養を示すためでもありません。
判断し続ける生活から、一瞬だけ降りるためです。
Vermillionで描くこと。
家にアートを置くこと。
どちらも、「削れないための設計」。
30〜50代になると、意識しない限り、
生活から制作も余白も消えていきます。
だから私は、
描き、
置き、
その状態を保とうとしています。
どんなの置いている
いくつかある中でも、彫刻家・基俊太郎「黒のエチュード」を好きですね。できたら、いつか「脱ぐ女」「裸の女たち」「絵馬」なども揃えたいと思っています。


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