はじめに|気づけば、ずっと視界に入っていた
バンクーバーでは、グラフィティが特別なものとして現れていない。
街を歩いていても、トレイルを歩いていても、自然に視界に入ってくる。
最初は意識していなかったが、「よく見るな」という感覚が積み重なっていった。
この違和感の蓄積が、たぶん関心の入口だった。
1|街中で見るグラフィティが、日常に組み込まれていた
ダウンタウンやEast Vancouverの裏通り、高架下、倉庫街。
そこではグラフィティが風景の一部として存在している。
排除されきっていないが、称賛されているわけでもない。
その中間的な扱いが、むしろ印象に残った。
「なぜ消されないのか」「なぜこの場所なのか」
そうした疑問が、街を見る視点を少し変えたのかもしれない。
2|夏のトレイルで、また出会う
夏になると、歩く場所が街からトレイルへ移る。
North Shoreや川沿いのルート、橋の下、インフラの影。
そこにも、同じようにグラフィティが残っている。
自然の中にあるのに、人工物の壁面だけが選ばれている。
無秩序ではなく、描かれる場所には一貫性がある。
この時点で、単なる落書きではないと感じ始めた。
3|冬になり、外から中へ移行する
秋が終わり、雨が増え、冬になる。
トレイルに出る頻度は自然に下がってしまうが。
代わりに、VRを触る時間が増えた。
運動系、体験系、創作系。
色々触ってみたら、その中に、Kingspray Graffiti VRがあった。
街やトレイルで見ていた「グラフィティ」が、
今度は体験できるものとして目の前に現れた。
4|描いてみて、ルールの存在に気づく
実際に触ってみると、自由そうに見えて、完全な自由ではない。
スプレーの距離、キャップの選び方、線の重なり。
思ったように描けない場面が多い。
そこで初めて、
グラフィティには内部ルールや文脈があるのだろうと理解した。
タグ、スローアップ、ピース。
街で見ていたものが、構造としてつながってきた瞬間だった。
5|「見たい」から「書いてみたい」へ
ルールが見え始めると、見方が変わる。
街やトレイルで目にするグラフィティも、
「雑多な絵」ではなく、技術や選択の結果に見えてくる。
同時に、
「なぜここで止めたのか」
「なぜこの色なのか」
と考えるようになった。
そして自然に、
自分でもやってみたいという関心に移行してきたのだろう。
6|季節で役割が変わるグラフィティ体験
今では、グラフィティとの関わり方が季節で分かれている。
- 夏
トレイルを歩きながら、橋下や構造物のグラフィティを見る。
ついでに鑑賞する、という距離感。 -
冬・雨の時期
外に出づらい時期は、他のVRソフトと並んでKingsprayを起動する。
創作として、静かに手を動かす時間になる。
外と内、鑑賞と制作。
この往復が、ぼちぼち無理なく続いている。
おわりに|バンクーバーだから成立した流れなのかも
もしこの街でなければ、
グラフィティにここまで興味を持たなかったと思う。
街で見え、自然の中でも見え、
冬にはVRで触れてみる。
バンクーバーは、
グラフィティを完全に切り離さず、完全にも抱え込まない都市だ。
その中間的な扱いが、
確認 → 理解 → 体験、という流れを自然に作ったのだろう。
今はまだ、見る側でも、描く側でもは初心者だ。
それでも、このまま続ければ、
夏に見る線と、冬に引く線が、
少しずつ同じ文脈に乗ってくるのかもしれない。


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