こんにちは。
今日は、「よく分からないまま終わる映画」として語られがちな クローバーフィールド について、少し肩の力を抜いて整理してみます。
この映画、
「説明が足りない」
「怪獣の正体を出さないのはズルい」
と言われがちです。
でも、よく見ると、そこがポイントではなさそうです。
定義|この映画は「説明不足」ではなく「視点拘束」の映画です
まず前提をはっきりさせます。
『クローバーフィールド』は、一本の手持ちカメラの視点に観客を縛る映画です。
軍や政府、専門家の会議室。
怪獣を分析する研究者。
そういう「説明できる立場の人」は、最初から画面に登場しません。
つまりこれは、
説明しなかった映画ではなく、
説明できる視点を意図的に消した映画です。
ここを押さえると、違和感の正体が少し見えてきます。
「説明がない」のではなく「説明できない場所にいる」
普通の怪獣映画は、視点を切り替えます。
市民 → 軍 → 政府 → 研究者、という具合に。
一方この映画は、
ずっと市民の手ブレ映像の中に閉じ込める。
だから起きているのは、
- 情報が断片的
- 状況がつながらない
- 判断が常に遅れる
という状態です。
でもそれは欠陥ではなく、
その場にいたら、実際こうなるよねという体験の再現です。
当事者視点は、情報が多いほど理解しにくい
面白いのはここです。
現場の中心にいるほど、実は全体像は見えません。
情報は大量に入ってきます。
でも、
- ノイズが多い
- 優先順位がつかない
- 選択肢そのものが見えない
こうなりがちです。
これは映画の話だけではありません。
仕事のトラブル対応でも、よく起きます。
私自身の失敗:一番見ていたのに、一番見えていなかった
誰でも似たような経験があると思うのですが、
仕事などでトラブル対応の中心に立ったことがあります。
情報は全部自分に集まり、判断も自分が下していました。
もちろん、そのときは、「全体を把握しているつもり」なのですが
後から振り返ると、どう考えても選択肢そのものが見えていない状態だった。
ということは多々あります。
それは、たぶん『クローバーフィールド』の登場人物と
構造はほぼ同じなんだと思います。
視点を分けると、世界は別物になります
ここで整理します。
- 当事者視点:判断は速いが、誤差が大きい
- 俯瞰視点:精度は高いが、到達が遅い
- メタ視点:行動はしないが、構造が見える
この映画は、
当事者視点だけを強制する設計です。
その結果、
視点固定 → 情報欠落 → 解釈の揺れ → 行動の混乱
という流れが、
そのまま映画体験になります。
「客観的であれ」という言葉が、ズレを生む瞬間
ここで一つ、視点にまつわる誤解を整理しておきたい。
私たちはよく、「それは主観的すぎる」「もっと客観的に見なさい」と言う。
事実に基づき、冷静に判断すべきだ、という考え方自体に異論はない。
ただ問題は、
私たちは超越的な何者かとしてう俯瞰はできないという点にある。
どれだけ「客観」を志向しても、
私たちが見ているのは、必ず自分の主観を通過した世界だ。
この前提を見落とすと、何が起きるか。
自分とは異なるタイプの主観を持つ人の話を、
無意識にこちらの主観で読み替え、
それを「客観的事実」として相手に押し付けてしまう。
このズレは、議論や意思決定の現場で、かなり頻繁に起きている。
主観を捨てるのでも、超越者になるのでもない
大事なのは、
主観だけに閉じこもることでも、
主観を一気に飛び越えて「全体を見ているつもり」になることでもない。
現実的な解は、もっと地味だ。
- それぞれが、異なる主観の位置に立っていることを認める
- そのズレを前提に、すり合わせを続ける
- 「完全な正解」ではなく、「より納得できる共有された見方」を探す
それが、
人間にとって可能な意味での「客観」なのだと思う。
「渦中の視点」という考え方
この話と深く関係する概念が、「渦中の視点」だ。
聞き慣れない言葉かもしれない。
心理学者の浜田寿美男氏は、著書 『渦中』の心理学へ の中で、次のように述べている(p.120–121)。
人は身体でもって生きています。
ですから、誰もがその身体の位置から、それぞれの世界を生きている。
たとえ神になったつもりで天上から人間界を見下ろし、
人間の行動や心理の普遍法則を論じたとしても、
それによって人間というものを知ったことにはならない。
要するに、
渦中にいるという事実そのものが、理解の前提条件だという話だ。
『クローバーフィールド』は「渦中」からしか世界を映さない
ここで、映画に戻る。
『クローバーフィールド』が強制しているのは、
まさにこの「渦中の視点」だ。
登場人物たちは、
安全な距離から状況を分析する立場にいない。
巻き込まれ、走り、迷い、その身体の位置からしか世界を見られない。
だから説明はない。
だから全体像も見えない。
これは怪獣の正体を隠した映画ではない。
渦中にいる人間が、世界をどう誤解し、どう判断してしまうかを
そのまま体験させる映画だ。
見えていなかったのは、怪獣ではなく「立ち位置」
鑑賞後に残る違和感は、
「情報が足りないから」ではない。
自分がどの立ち位置で見せられていたかを、
途中まで忘れてしまうからだ。
『クローバーフィールド』が突きつけている問いは、ここにある。
いま自分は、渦中にいるのか。
それとも、渦中にいる誰かを、俯瞰した気になった視点で裁いていないか。
この問いを一度挟めるかどうかで、
映画の見え方も、仕事や対話の質も、確実に変わってくる。


コメント